女であることを受け入れ、姿勢を正して生きる(『孤独の意味も、女であることの味わいも』)

 子供を産むという、リアルな夢を何度も見た。

いや、産んだことないからリアルなのかどうかはわからないんだけど。

起きたらなんだかお腹が痛くて、その日は何度もトイレにいった。

 

三浦瑠麗さんの、『孤独の意味も、女であることの味わいも』

を読み始めた夜のことだ。 

孤独の意味も、女であることの味わいも

孤独の意味も、女であることの味わいも

 

 

産んだことがないのに子どもを産む夢を見てしまうほど、

リアルな描写が何度も何度も繰り返される。

匂いとか、感触、などの五感も一緒に。

 

子どもを産む描写だけでない。

筆者の記憶がまるで、自分の記憶と重なるようにしてリアルに呼び起こされる。

 

中学生の時に部活でいじめにあい、その理由を担任の仕切りで聞かされる、裁判のようないたたまれない出来ごとのこと。

まるで調理されていく魚だった。中骨のところで捌かれて白い身をさらけ出し、内臓はあらかた取られてしまっていた

 

 旧い家庭での、抑圧のこと。

祖母が私の兄や弟にいいお刺身を付け、女の子たちの待遇を別にするのを見て、私はちいさい頃からそこはかとなくこの家の伝統を感じ取った

 

「ああ、これだから、女って嫌なんだ」

 

っていう、しばらく忘れていた感情が、フツフツと蘇ってくる。

 

集団ヒステリーのような同調圧力とか。

女だから社会的に抑圧されて当たり前、と半ば諦めつつもかわいそうな自分たちがかわいい、という雰囲気とか。

ああ、ここ数年、忘れていたような気がしたのに。

 

いや、忘れていたわけではないのかもしれない。

「わたしは、男社会の中でも生きていけますよ」、というなんの意味もない演技をして、そこから脱却したようなつもりになっていただけかもしれない。

 

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数学のクラス合同授業で、九六人の男子が三、四人の女子と一緒にずらっと講堂に腰掛けているさまは異様だった。

 

工学部に入学し、私もこの光景を目の当たりにした。

最初こそショックを受けたが、私はこの異様な状況を、利用することにしたのだった。

 

当時は女社会にいることにとても窮屈さを感じてしまっていた。

周囲の女友達との衝突や、仲間内で自ら作り出してしまう抑圧のなかに、自分の中の嫌な部分に焦点が当たるような気がして辛かった。

男が相手だったら、どうせ違うからと、それに向き合わずにすむ。

どうせ違うからと諦めることで、傷つかないですんだ。

 

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筆者は一貫して、

女というより、人間として見てくれる

ことを望んでいる。

 

私は、そうやって「女であること」から逃げに逃げる学生時代を送りながら男性と過ごすうち、やはり男からは、「女」としか見られないのだ、ということを理解し始めた。

 

ここまで、クラスメイトの君と私は、たぶん同じだけ努力して、同じだけ結果を出してきた。

ずっと対等だった。

なのになんで、ある時突然、女は守られるべき存在になってしまうのだろう。

動物的に、男は力が強くて、女は力が弱いからだろうか。

だから、突然一歩下がる必要が出てくるのか。

 

たとえば、「女の子扱い」をしてもらって、なにかと下駄を履かせてもらうこと。

たとえば、「女の子だからおごるよ」っていわれること。

それってなんだろうか。

私は、そんなことを鼻高々言う男がいやだ。

 

でもそれは、それを享受してしまう、女側にも原因があるのだろうか。

 

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 筆者は、

女というより、人間として見てくれる

ことを望んでおり、そのために、

つながりたいと思った相手には近しい少数の人にせよ、多数の見知らぬ人にせよ、同じやり方でしか臨んでこなかった 

 そして、

常に率直すぎるほど率直に語り振る舞う必要があった 

 と書いている。

 

 

新入社員の時、飲み会の席で、たまたまわたしの近くにサラダのボウルが置かれた。

テーブルの上は他の料理で混み合っており、わたしが取り分けて配った方が早いように思えた。

 

トングを手にとりサラダを取り分けようとすると、男性の上司に止められた。

「いやいや、いいんだ。女の人に取り分けてもらうような時代じゃないから」

 

 思わず

「女だから取り分けてるんじゃないんです。わたしが取り分けるのが効率がいいから、だから取り分けようと思ったんです。」

と言い返していた。

 

その人は一瞬ポカン、として、

「それもそうだな、すまん」

 と言った。

 

私は自分の生き方を、その時に決めたような気がしている。

 

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世の中には、当たり前に、男もいて、女もいる。

わたしは人間であり、そして性別が女だという、ただそれだけだって言うことを、姿勢を正してまっすぐ言い続けることだ。

間違っていることがあれきちんと説明して、言い返していい。

女が日本社会に順応するというのは、気持ちを汲み取ってもらえるまで待っていることだという感触が私にはある。ぽつりと漏らす控えめな言葉に、周囲が察してくれる余白や余韻を残す。聞かれるまで自分から望みを口に出さない。

 言い返さない背景に、どうせわかってもらえない、という思いもあるのではないかと思う。

 

もしかしたら、論理的でない、とかヒステリックだとか、言われるかもしれない。

だって世の中で、一般的に女はそう言うものだと言われているから。

わたしも、会社で何度も言われたことがある。

でも、たとえそうだとしても、それが自分だ。

堂々と、違うと思うことは違うと言おう。

 

もう一つ決めたことがある。

誤解を受けたくないから自分に近いサラダを取り分けないような真似はしない、ということだ。

もしそれで誤解を受けたら、女だから取り分けているんじゃない、とその都度きちんと説明すればいい、ただそれだけだからだ。

本当はその発言が、人として生きている女に対して失礼だということに気づいてほしい。

でも気づいてもらえないなら、きちんと発信しようと思う。

 

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女であること、から私は今でも逃げている部分がある。

女友達と少し近い関係になると、自分の嫌な部分が投影されてしまって途端に距離を取りたくなってしまう。

自分に一番近いサラダを、本当に取り分けるべきか、少し逡巡してしまう時もある。

女である、ことを本当に受け入れ、姿勢を正し、個人として生きられているかと言うと、胸を張ってそうも言えないような気がする。

 

でも、女であることを忘れる、と言うのは無理だ。

女でなくなる、のも無理だ。

私は紛れもなく女で、男にはなれない。

自分がいちばんわかっているのだ。

 

女としての自分の、醜いところも好きなところも全部受け入れ、姿勢を正して生きる。

それが私にとって、「女というより、人として生きる」ということなのだと思う。