推しへの愛と彼への愛、そこに明確な境界はあるか。

アイドル好きだって公言したとき、

周りのアチャー、感じません?

どこから来るんでしょう、そのアチャー。

 

おそらく、あ、こいつ、夢見女だなーと思われていることから来るんじゃないかと思うんです。

 

それってどうなんですかね。

 

私には、結婚していないけど、結構長くお付き合いをしている人がいます。

その彼への愛と、推しへの愛。

そこに明確な境界はあるのでしょうか。

 

考えるのもおこがましくて辛くなっちゃうくらい、それはもう、明確にある。

結婚できないの、アイドルオタクのせいにしないで。

モテないの、アイドルオタクのせいにしないで。

 

推しが現実世界のものでないの、別に、ちゃんと分かってるんだよ。

 

たとえば。

愛っていう名前の箱があったとして、

その中に仕切りがあって、お互いは絶対混ざらない、って、私にとってはそんな感じ。

じゃあなに、愛っていうのが一定量だとすると、

推しができたことで彼氏への愛が減ったかというと、

そうではないのだなこれも。

 

うーんじゃああれだ、もともとあった愛っていう名前の箱に仕切りを入れたんじゃない、

愛っていう箱をもう一つ手に入れた感じだ。

 

あーそれそれ。

全然別の種類の愛を、もう一つ手に入れた感じ。

 

あ、でもね、愛っていう箱はいくつでも手に入れられるとして、

与えられた時間は誰しも同じなので。

彼氏にかける時間は減ったかもしれません。

時間と愛って比例する?

わたしはしないと信じてる。たぶんね。

 

逆に、というかすごく気持悪いことを言うのだけれど、

じゃあ彼氏と推しって、私にとって何が違うの?

っていうふうにも思うわけです。

 

当たり前だけど、

プライベートで推しに触れるということは絶対にないわけで(書くだけで申し訳なくて震える)、

たとえば悩みを聞いてもらうことも、

聞いてあげることも、ないわけで。

 

でも違いはそれだけで。

 

推しも彼氏も、私に元気をくれて。

生きていくのに必要不可欠で。

 

 

彼氏(現実)にはなくて、推しにあるもの。

たとえば、トキメキとかかな。

でもさ、トキメかなくたって、一緒に生きていくにはこの人、ってあるでしょう。

戦友っていうのかな。

それは絶対、推しでは補えない。

 

つまりね、現実で補いきれない部分を、アウトソーシングしてる部分はやっぱりあるんです。

 

結局、二足の草鞋を履いて、バランス取って、みんな生きてるんじゃないのかな。

 

それじゃ、ダメなのかな。

やっぱり理解してはもらえないのかな。